2015年04月07日

天満橋の北側 空心町で波乱万丈の社会人スタートを切った

天満橋の北側は昔は空心町という町名だった。
高校を卒業して、就職した会社の本社はここ空心町にあった。
1964年春にここで社会人のスタートを切った。
新入社員は120名という大量を採用していた。
自動車の販売会社だった。それからが波乱万丈の人生の始まりだった。
毎日、京阪天満橋駅から天満橋を渡って会社まで通勤した。

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天満橋北詰から望む京阪天満橋駅

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南天満公園遊歩道を歩く

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京阪天満橋は、当初松坂屋が入った。

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八軒屋浜船着場

天満橋付近は今のようなビル街になっていなかった。
会社の拠点は、この本社・空心町営業所と守口営業所の2ヶ所だけだった。
守口営業所は大きいのに、本社・空心町営業所は小さくてしょぼい、へんな会社だった。
へそ曲りな僕は、それが気に入った。

僕は当時から空心町営業所より、天満橋営業所と名前を変えたほうがいいと思っていた。
京阪電鉄は昭和38年4月15日淀屋橋乗入れを果たし、天満橋駅は地下駅になっていた。
当時の天満橋駅は地下駅が開業はしたものの、地上には駅ビルはなく、地下鉄谷町線も開通してなかった。

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天満橋北詰から東方面。散りゆく桜を眺める。

通勤は天王寺から国鉄大阪環状線で京橋まで、京橋から京阪の乗って天満橋までという、やや変則的な通勤ルートを取っていた。地下鉄谷町線がなかったからである。
当時の国鉄環状線は混雑を極めていた。電車の窓ガラスが割れることも稀ではなかった。
とくに京阪の京橋駅が高架になる前で、国鉄京橋駅と京阪京橋の間は通勤の人波が続いていた。地上の京阪京橋駅の高架化完成は1969年11月まで待たなければならなかった。
そうこうするうちに、芦原橋に近い浪速区浪速東に新本社ビルが竣工した。
場所はよくなかったが、建物は立派な鉄筋コンクリート造の5階建であった。
屋上まで上がれるスロープが南面にあった。
それから、しばらくしてとんでもない事件が起きた。
当時、日産の販売会社だったのだが、販売会社の社長は扱い車種に不満を持っていて、日産本体に、たびたび扱い車種に乗用車を加えるよう要請していた。
日産のディーラーからトヨタディーラーに鞍替えというとんでもない転進であった。

日産の幹部は頭の硬い官僚的体質を持っていたのを、乗用車を扱い車種にと、社長は何度もお願いしたが、受け入れられず、日産自動車本体に聞いてもらえず最後の手段を取ったのであった。当時この販売会社は商用車とトラックしか扱ってなかった。
日産自動車本体に聞いてもらえず最後の手段を取ったのであった。

社員も真っ二つに割れ、2分割の様相を呈した。
残った社員は日産からトヨタになり、日産本体は大阪に新会社を設立した。
西区川口町に本社を置く新大阪日産モーター株式会社を設立。
日産に愛着のある転進組は会社が変わっても扱うのは日産のままとなった。
ごたごたは半年以上に及び社員は仕事が手に付かない状況が続いた事件であった。
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posted by マッチ at 21:02| Comment(0) | 天満橋・大手前 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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