2010年11月19日

神戸特集(1):苦境に立つ神戸

1221_1.jpg

いつのころからか、神戸は元気をなくしてしまった。
大きな転機になったのは阪神大震災。平成7年1月17日に「阪神大震災」が起こり神戸の街は壊滅的打撃をうけた。それまでの神戸は極めて順調に発展を遂げていた。狭い市街地ながら、山をけずり海を埋め立てる都市づくりは都市経営のお手本とまで言われた。
神戸ポートピア博が開かれた1981年あたりから、絶頂期を向えていた。飛ぶ鳥を落とす勢いとでもいうのだろか。神戸に追い風が吹いていた。

「神戸に行けば面白いことがありそうだ」というムードも醸成され、流行に敏感な若者に注目される都市だった。神戸発のファッションもマスコミが取り上げ、流行の先端を行く都市のイメージがあった。
そんなムードが震災を境に消えてしまった。それまで神戸の追い風になった付加価値的要素が消え失せた。

じっさい神戸は流行の先端を行く都市だったのだが、これは裏を返せば苦しい立場の証しでもあった。「先端を走ることを宿命づけられた都市」と私は理解していた。
先端を走る宿命とは? これはしんどい宿命だから、いつまで続くか分からない。次々と流行を生み出す必要があった。流行だけでなく、自治体の街づくりもウルトラCが要求された。
大阪がとなりにあるから、鼻息の荒い神戸は張り合うことになる。中心都市はオーソドックスな手法で十分に通用するが、マイナー都市は目立つ必要があった。いつのころからか、神戸は先端を走る宿命になっていた。

中央マスコミや雑誌メディアなども、東京のライバルになる大阪は評価を落とす必要があったので、神戸に加担していた。これも追い風になっていた。
ところがこれらが、震災とともに崩れ去った。震災をきっかけに神話は崩れた。
神戸の人の意見を聞くと、震災を境に「三宮・元町に来る人が入れ替ってしまった」という。

なぜ神戸神話は崩壊したのか?私の説は次のようなものである。
震災復興におよそ5年程度の年月がかかったのだが、この5年は空白の期間になった。
5年でなくても、本当の復旧工事が1年であったにしても、神戸在住者も、芦屋・西宮といった阪神間在住者も、仕方なく大阪に行く必要が生じた。大阪行きの頻度が多くなった。
神戸の人は、大阪を知ってはいるが、そう詳しく知るわけではなかった。できれば神戸の街で働き、買い物も地元でしたいと思っている人が多かった。だが、神戸の街は完全に壊滅したので、大阪のやっかいになるしかなかった。

積極的に大阪に行くつもりもなかった神戸っ子だが、梅田に行く回数が多くなり、行ってみると梅田も立派な街だと思うようになった。大阪に対する偏見イメージも行く機会が増えて消滅していた。もともと震災前から勤務先が大阪という人は多かったうえに、買い物もそのまま梅田に定着した人が多くなった。
神戸市の昼夜間人口比率が100%を越えているから、ベッドタウンではないとか、自立性が高いなどと単純にいえない。すくなくとも区別の分析が必要になる。とくに東部の灘区・東灘区などは以前から大阪を向いていた。

かつてあった神戸の付加価値部分がなくなり、神戸は丸腰の評価になった。大阪と同じ実質が都市の力量に反映し、大阪と同じ土俵なったから、そうたやすく持ち上がらない。
神戸は観光的な集客が多かったが、流行の先端を走るのも、若年人口の減少などもあって、若者が流行トレンドを起こすこともなくなった。追い風は逆風に変わっていた。

主に近畿の流行発信基地の役割を担った神戸も、震災後それどころではなくなった。大阪と張り合うか、連携するかが残された選択となった。

122_1m.jpg
神戸大丸西側、旧居留地・大丸前付近から北を見る。一枚目の上の写真はフラワーロードに面した神戸国際会館。

「JR神戸線沿線レポート」も残しているが、思うところがあって、神戸特集になってしまった。気まぐれ特集かもしれないので、何回になるか分からない。
今回、取材なしの机上論なので写真はなしで、以前の撮影のものをすこし。久し振りに神戸を歩いてみたい気はしている。




「都市の景観と躍動」トップに戻る
posted by マッチ at 22:01| Comment(0) | 神戸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]