2015年02月15日

東海道は53次でなく五十七次だった

京都・伏見出身の鉄道ファン、中村卓之氏は、鉄道雑誌「関西の鉄道」に、東海道57次と題した連載を続けておられる。
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鉄道趣味誌「関西の鉄道」。創刊35年以上続いている。伝統の鉄道誌。

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東海道57次をテーマにした記事・・・。

僕は中村卓之氏を存じ上げているのだが、近頃は「鉄道ファン」誌にもカラー写真構成のヨーロッパ鉄道紀行のような原稿も掲載している。

京都伏見の酒造会社、月桂冠のコラムにも東海道57次が書かれている。
「何を言ってるんだ。東海道は五十三次にきまってるじゃないか。五十三次目の「大津宿(しゅく)」のあとは京の三条大橋だった筈だ」との声が聞こえてきそうだ。そういえば、天保3年(1832)の有名な安藤広重の旅の浮世絵も『東海道五十三次』という題名である。しかし、よくよく調べてみると、たしかに東海道は五十七次になっていた。
文禄3年(1594)、天下人としての城を伏見に造営した秀吉は、延べ25万人を動員、かつてないほどの金殿玉楼の城を築くと共に、大土木工事を敢行した。まず、伏見城と大坂城とを最短距離で結ぶため、淀川左岸に「文禄堤」と称する大堤防を造ることを毛利一族に命じた。その堤上に伏見から大坂・京橋に至る「京街道」を走らせたのである。
これは京都伏見の酒造会社、月桂冠のコラムに書かれている一文である。
伏見の企業だけのことはある。

なぜか伏見には同じ京都といいながら、すんなり京都を受け入れず、反骨の精神がある。

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東海道・大津宿の絵図

東海道57次のルートは大津宿〜山科追分〜伏見宿〜淀宿〜枚方宿〜守口宿〜大阪・高麗橋となっており、大津宿から、伏見・淀・枚方・守口の四宿を加えて、57次となる。
伏見も、大阪と同様、京都の手前、山科追分から分かれて伏見・大阪を目指すルートとなり京都を経由せず飛ばしてしまう。
大阪人の私も何が53次じゃ。江戸時代すでに全国経済の中心であった大阪を無視できるはずはない。どこかおかしい、どうせ東京のでっち上げだろうくらいに思っていた。
※注釈:「東海道と申すは、熱田より上方は、伊勢路、近江路を通り伏見、淀、牧方、守口迄外はこれ無き」(土佐藩から問いに対する幕府大目付勘定奉行からの回答している。
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posted by マッチ at 11:53| Comment(0) | 大阪圏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする