2014年11月30日

仁徳天皇陵付近の黄葉の銀杏は遅かった

11月最終のエントリーです。今風の言葉でいうと、ファイナル・エントリーになります。
大仙公園は僕の思い出の公園でした。一時期僕は堺市民でした。
宮内庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として第16代仁徳天皇の陵に治定されている。一般には「仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)」とも呼ばれる。

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仁徳天皇陵の拝所です。

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仁徳天皇陵・拝所の駐車場から東を見る。見頃にくると、ほんと見事な黄葉ですけどね。

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仁徳天皇陵・拝所の駐車場です。

この天皇陵を考察するのに注意する必要があるのは、摂津国と河内国、和泉国の境界が古墳時代と近代では、変わっている点に特に注意を要する。
近代になる以前の境界は、南海堺東駅から堺駅に伸びる大小路通りが境界とされてきた。
「堺」自体もそうだし、「三国ヶ丘」もそう。摂津国、河内国、和泉国の境界からきた地名である。
それはそれで、正しいのだが、考察する必要があるのは、近代になってから、摂津国と和泉国の境界を大和川に変更されたことである。

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拝所駐車場から

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まだイチョウの落ち葉が積もっています。

大和川は古代の話をするには、新しすぎる。
正直、大和川はめちゃくちゃ新しいので、つい先ごろ「大和川300周年」があった。
元の大和川は柏原から北に分流して流れていた。そして天満橋で淀川に合流していた。
大阪と堺市の間に、大和川はなかった。地続きであったのだ。

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仁徳天皇陵の正真正銘・拝所です。
だから、宮殿は「難波宮」にあっても、陵墓は百舌鳥や古市にあっても全然おかしくないわけです。
難波宮に宮殿があり、堺や羽曳野に陵墓があるのは、むしろ自然なことです。
それを「河内大王」だのという方がおかしい。摂津大王と言い換えてもらう必要がある。
基本は宮殿の所在地である。

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現在は、何かと、大和川が境界のように意識されるが、かつてはそうではなかった。
柏原から「玉櫛川」「久宝寺川」などの分かれて淀川に流れていたんだ。
大阪の陣400周年も、それを念頭において考察する必要がある。
大阪市内は摂津国に属するけれども、河内も大阪の東部として、意識する必要がある。

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御陵通りです。

歴史の教科書に「世界最大級の墳墓」として掲載され、宮内庁管理のため陵域内への自由な出入りはできないが、堺市の主要な観光地となっている。最も墳丘に近づけるのは正面の拝所で、二重濠の外側堰堤まで立ち入ることができる。2000年(平成12年)には特別参拝として二重濠の内側堰堤まで立ち入りが許されたことがある。しかし、濠に棲むナマズや鯉を狙った釣り人のゴムボートによる無断立ち入りが昔から後を断たず、警備上の問題点とされている。三重濠に沿って周遊路があり(1周約2,750メートル)、陵域を一周することもできるが、余りにも巨大な墳丘のため、どこから見ても山にしか見えない。

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大仙公園の平和搭を望みます。

考古学的には仁徳天皇の陵であることに否定的な見解が唱えられているが、築造時期が5世紀前半〜中頃との見方が確定することによって、文献史学上で想定される仁徳天皇の活動時期に近づくとする見解もある。ただし、宮内庁が調査のための発掘を認めていない現状において、学術上ここが仁徳天皇陵であると確定することは不可能であることにより、現在では教科書などを含めて「仁徳天皇陵」との呼び名は用いられなくなっている。
堺市民は親しみを込めて「仁徳さん」もしくは「御陵さん」などと呼んでいる。堺市内には、他にも2つの天皇陵(履中天皇陵・反正天皇陵)があるが、単に「御陵」と言った場合は仁徳天皇陵を指す。また、堺市の地区名や町名には、陵西・陵南・向陵(北東)など、この古墳からの方角にちなんで付けられたものがある。堺市役所高層館21階の展望ロビーからは、巨大な前方後円墳の全容を遠望することができる。
他の古墳にも言えることだが、立ち入り制限のおかげで、都会の中心にありながら貴重な自然が残されていることも特徴である。鬱蒼とした木々が茂り、多くの鳥や昆虫の楽園となっている。

仁徳天皇は、ほんとは堺市とあまり関係がない。
仁徳天皇は「なにわ天皇」と呼ばれるのだから。せいぜい住吉大社まで。
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posted by マッチ at 18:41| Comment(0) | 府下(和泉・南河内) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする